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【井上えつ子】

  • 執筆者の写真: ecco inoue
    ecco inoue
  • 10月26日
  • 読了時間: 11分

何かを掘り下げたり、面白かった事や見つけた事などをたまにアップしようかと思い「コラム」のカテゴリーをブログの中に作りました。すごくお時間がある時などに読んでいただけたら嬉しいです。 「コラム」の初回は【井上えつ子】です(笑)。「えつ子先生は花屋さんで絵の先生?」と先日も聞かれました。その答えにならないかも知れませんが、私についての一部を書きました。長く生きてきたので長文です(笑)。



子供の頃から作る事が生活の一部でした。父はタイル職人、隣は大工、向かえはガラス屋で、その向こうは左官で、学校の帰り道には友達の畳屋があるというモノ作りの英才教育(笑)の中で育ち、材料や道具はあちこち回れば調達できるので、飼っていた犬、鶏、インコの小屋を作ったり、自宅裏にある土手に何日もかけて洞窟のような穴を掘って怒られたり、誰にも内緒で色んなタネを土手に埋めて忘れた頃にいちじくが出来たり、近所の平屋の屋根上に秘密基地を作ろうとして屋根に穴を開け猛烈に怒られたり。

母親は女の子らしい服を着せたかったみたいですが、どうにも似合わない女の子でした。

小1くらい。母手作りのひまわりスカートとレースひらひら帽子。
小1くらい。母手作りのひまわりスカートとレースひらひら帽子。

学校ではクラスに溶け込む普通の子で、友達数人の前でものまねなどして数人が笑ってくれる事に喜ぶタイプでした。小さなコミュニティでわちゃわちゃするのが好きなのは今もそうかもしれません。親に内緒でひとりで3駅位遠い場所に自転車で行く冒険をこっそりやったりしていたので、ひとりで思いついた事をするのは今もそういう気質があります。


コンテストの賞品作りやパャンプのデータ制作などしていますが、パソコンでのデータ制作が本当に大好物です。「知らない事を調べてなんとかして作る」事が性にとても合ってると思います。

初めて触ったパソコンは約35年前、AppleのMacintosh SE30で当時約70万円位したので、清水の舞台から飛び降りまくりました。


Macintosh SE30 (出典:Wikipedia)
Macintosh SE30 (出典:Wikipedia)

画面はモノクロでフロッピーディスクを使用し、アイコンもパソコンの中身は何もかも英語のみ。近所のApple信者のおじさんが見せてくれた初めて見るその箱は魅力的すぎました。キーボードというもの、マウスというものを使って絵を描きました。どんどん描いて細かい絵が描けるようになり、音楽に合わせてカタカタと動かしたのを作っておじさんに見せていました。SE30の横には山積みされたフロッピーディスクが積んでありました。


携帯電話もインターネットも無かったこの時代。

このSE30でできる事はフロッピーディスクで新しいソフトなどをハードディスクに入れ込むだけでしたが、今もある「ハードディスク」と「それ以外の保存場所」の概念、マウスでの指示、「ゴミ箱」や「フォルダ」などのアイコンはずらっとホーム画面に並び、ゴミ箱にいらないファイルを捨てるとグシャっと音が鳴り、ONOFF電源がそれまでの家電と違うひっそりとした場所にあるなど、おおまかな使い方は同じでした。初グシャっと音は感動したのを覚えています。


その後、Apple MacintoshⅡというカラーの画面のパソコンでペンタブレットを使って絵を描いていました。初めてのパソコンが70万円もしたので、「40万でカラー!!安っ!!」と気がおかしい人がよりおかしくなっていたので即購入。

人間おかしくなるとこういう感じになります。このおかしさは商売に使えるなと思い、花屋ではまずは高額商品を見せて、次にちょっと高い商品を見せたりしていました。そんないやらしい事を考えている大阪から名古屋の花屋に嫁いだ20代。


初々しい結婚式。超巨大なヅラ。この後前方にズレた。
初々しい結婚式。超巨大なヅラ。この後前方にズレた。

そして大革命の「インターネット」というものができ、ADSLのアナログ回線からISDNのデジタル回線の接続の速さに歓喜し、花屋の仕事が終わって子供が寝た後は、ジオシティーズ(当時あった無料で作れるホームページ)でモンゴル人と日本人の会話を漫才形式のネタを作り、ひとりで夜間に笑っていました。マニアックなファンも数十人いて知らない人が笑ってくれる事が快感でした。 同時期Windowsを購入し、入力の仕事をしていました。もう何台のパソコンを買ってきたかは途中から数えなくなりました。

今では考えられないですが、グリコなどのお菓子会社の大量に応募されたハガキの住所氏名年齢などを入力する仕事です。いわば内職。この仕事のおかげでホームポジションなんてもの全く知らないけど、めっちゃくちゃのタッチタイピングが猛烈に早くなりました。

その後Photoshopというものを知り、関連本を読み漁って実験し、最初のPhotoshopはバージョン5だったと思うので調べると27年前でした。30代。この頃からHTML、CSS、CGIやJavaScriptを触りだします。どうしてもわからない事はインターネットで繋がった有識者に質問しまくり、インターネットは世界中の人や本がリビングにある箱に入っているみたいで、大曽根の小さな花屋の私の世界を激変させました。


当時ソフトは家電屋さんで箱に入って売っていた。
当時ソフトは家電屋さんで箱に入って売っていた。

32歳の時、英語も全く出来ないくせにアメリカデラウェア州に本社を置いたデザイン会社を作りました。サイト制作で大きな仕事が入り、株式会社にしなくてはならなくなり、当時株式会社を日本で作るよりアメリカの方が断然安かったのと、デラウェア州は税制で優遇されていた理由で。後にこの会社は譲渡しました。

名古屋市から夏休みの中学校の教室を利用した高齢者向けのパソコン教室の指導依頼があり自転車で各中学を周り、親よりずっと年上の方に「先生」と呼ばれパソコンの使い方を教えたりしました。パソコン購入にも付き添い、大曽根のエディオン(当時エイデン)にずらずらーと先輩方を引き連れ、パソコンのスペックの話などをして如何わしい商売をしているみたいな本業花屋でした。 セントラルタワーズの上の階の会社に数百台のパソコンの配線・設定をする仕事なんかもした本業花屋でした。


30歳代はビジネス専門学校での講師もしていたので、生徒は18歳から80歳代と幅広くなりました。ビジネス専門学校ではフラワービジネス科という科で、即戦力になる為の技術や考え方をちょっと厳し目に指導し18、19歳の生徒は泣いたりしていました。80歳の生徒さんからは「電源が入りません」の電話でコンセントを刺すだけに自転車で走り、私が泣かされていました。「抜かないで差しっぱなし」のカードを作りその後配布しました。


20年務めたビジネス専門学校の最後の授業。
20年務めたビジネス専門学校の最後の授業。

35歳の時、名駅に花屋ecoを作りました。名駅は人酔いする程の人通りなのに全く売れず、毎日悔し泣きしながら大量のバラの花を持って帰っていました。店の中から人通りを見ているとこちらに目を向ける人が圧倒的に少なく足早に通り過ぎます。まるで店は透明なんじゃないかと思うほどでした。


eco名駅店。23年続いた店は昨年名駅のリニア開発の為閉店。
eco名駅店。23年続いた店は昨年名駅のリニア開発の為閉店。

見てくれないないなら見てもらおうと、無理やり視野に入るよう髪をアフロにし、頭を振りながらあっちの花をこっちに、こっちの花をあっちにと1日中忙しそうに楽しそうに動き回りました。飛んでいる虫は見てしまうアレです。人間は動いているものには目を向けます。そのうちアフロ頭に輪ゴムを仕込んだりして、花束を吉野家並に猛烈な速さで作りました。 私は名駅で「変な花屋」になりました。


おかげで当時の情報番組の東海テレビ「ぴーかんテレビ」が取材に来てくれて、生放送でアフロ頭を振りお客さんが並ぶ店になりました。

取材後レポーターの福田さんはお店に来て下さいました。
取材後レポーターの福田さんはお店に来て下さいました。

3年後、金山にもう1店舗作りこの2店舗は3年間づつ立ち上げのシステムやカラーを作ってスタッフに任せます。帰宅後はサイトやプログラム制作、週1で専門学校講師業をしていました。


44歳位の頃、花屋併設のカフェとライブバーを作ります。きっかけは先代から相続した時の借金約1億の返済がほぼ終わり、「これからちょっとゆっくりできるなぁ」の主人の言葉に愕然としたからです。

(もう勝負せんのかい、おもんない。)

名古屋に嫁いでから借金返済のない生活を殆どしてこなかったので、返済のモチベーションが無くなる未来が「おもんない」に連結してしまったのかもしれません。昭和のバブルを経験したお金の感覚や、父親から「借金は活力働けば返せる」と教えられたのもだいぶあると思います。


ならばと営業終了後、ひとりで無駄に広い店舗に乱雑に置かれた物の掃除を始め、2ヶ月かけて何も無い空間を作りました。広くなった空間を見て主人がちょっとやりたかった花屋併設のカフェ、そして地下(今のパコ絵画教室空間)で娘がちょうど音大を卒業しジャズを歌っていたので歌える場所を作って、お酒を飲みながら娘の歌が聴けたら最高だなーと主人が言い出した時作戦成功でした。


改装費に新たな借金をする銀行の交渉には事業計画表を作って、UFJ銀行の支店長の前で演説をしました。人通りの少ない大曽根商店街の利点をふるに活かし「活性化」「だからこそ」の文字が踊りました。


カフェとライブバーは最初全くお客さんが来ませんでした。閑散とした大曽根で花屋がそんな事を始めたのも知らない人だらけなので当然です。


花屋の2Fに作ったカフェに360度の絵を描いた。
花屋の2Fに作ったカフェに360度の絵を描いた。

Facebookが始まり、有料広告を打つ代わりに無料のこのシステムを使って大曽根に来てもらう「私がパンダになってお客さんを呼ぶ」作戦を立てました。アイデア的にはアフロに続く第二弾です。今度はアフロにするのではなく、連日記事をアップしました。私と店に興味を持ってもらう事のみを意識して。私はこれを「明るいところにはハエも寄る作戦」と呼んでいました。


ライブバー BLUE FROG。お酒が並んだ棚は今では画材が並んでいる。
ライブバー BLUE FROG。お酒が並んだ棚は今では画材が並んでいる。

この頃は人生で一番働きました。息子が高校生で朝弁当を作り、カフェでランチを作り、夜はバーでAM2時まで。花屋をやりながらカフェが休みの木曜日は専門学校講師業、パコの建物にある壁画を描いて、JB'sというクラブでライブペインティングを隔月にやったり、あちこち遠征して絵を描いていました。


JB'sの楽屋でミュージシャンとアフロ。結局アフロ。
JB'sの楽屋でミュージシャンとアフロ。結局アフロ。

ライブペインティングでは、ブラックライトで光る蛍光の絵具を使いました。ミュージシャンの演奏に1〜2曲づつ絵を変化させ、1ステージで5〜6種類の絵を描いて最後に1枚仕上げていました。ピカソのゲルニカを暗記して描いて、私のゲルニカに変化させたりしていました。絵具をジャブジャブと大量に使い絵具で泥遊びをする感覚でした。


年間で休日が元旦だけで40代はとんでもなく働きました。しかしこの仕事でミュージシャンや、花屋とは別の仲間やお客さんと知り合いになれたのは今も宝物です。

そして何よりこの仕事の中でいづれパコを作る事になる、当時はミュージシャンと画家という草鞋を履いていた原田章生君と知り合います。この話の続きはまたどこかで。


カフェは5年で閉めました。ライブバーはパコと同じスペースで、パコが休みの週末にコロナ禍までは続けていましたがその後閉めました。

この時の改装をしていなかったら、壁画もライブペインティングもパコ絵画教室も無かったと思うとあの時動いてほんとに良かったと思います。


子供の頃から走る事が得意で、100mと1000mの短長距離の豊中市中学生記録は数十年破られなかった逃げ足の速さと、バケモノ食欲と体力に元彼達には引かれ、振られ、体育教師になりたかった私が、レンタルレコード店のバイト先で美大生のお兄ちゃん達に囲まれ美大の面白さを知り洗脳され、こっちの世界に流れてきました。


おかげで「体育会系オタク」という性質が今も健在です。興味を持つと突進する性質は何歳まで持ち続けれるか、私が私を使って実験しているような現在58歳です(笑)。

気がつくといっぱいあったはずの怖い事や嫌なことが思いつかなくなりました。思いつく時間が無かったのが続いたらクセになった感じです。自分の中で勝手に決めていたような限界値が案外そんな限界値でなかった事も知りました。

お陰様で借金は全て返済し、二人の子供も35歳と27歳とすっかり大人になって、今の身はとても軽いです。(が、もう1つ次を現在思案中)


私は未だに何者になりたいのかわかりません。まだ何か名前のついたものになりたいと思っていないのかもしれません。絵を描くことも、花を組む事もパソコンで何か作る事も、床を貼る事も料理も、植物やメダカを育てる事も全部同じ土俵で好きで、やっているうちにごはんが食べられてたという感じです。肩書を聞かれるのはずっと苦手です。


娘に「絵画教室はえっこさんの天職だね」と言われました。パコでの時間は今までの時間の中でも凄く好きな時間です。体が元気な間どんな形になっても続けられたらと思っています。

神様に色々徐々に奪っても仕方ないけど、目と右手と声だけは最後にして下さいとお願いしています。 卒業していった子供達が大人になってたまに顔出してくれたら最高です。最高すぎませんかそんな老後。最高です。ついでに焼肉をおごってくれたら最高です。 神様にあと食欲も最後にしてくださいと追加します。 長文大変失礼いたしました。


次回は「パコ絵画教室について」書きたいと思います。

Pako Art / PAKO Art School
名古屋市北区大曽根3-3-14

080-4661-0755
(電話でのお問い合わせは開講日開講時間のみ)
pako.artschool@gmail.com

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